第5部 時代の性格分析


◆「物の時代」と「こころの時代」

  次は、「生かされてる医学」の「時代の分析」についてです。それは、「物の時代」と「こころの時代」の比較についてといってもよいでしょう。

  性格分析は個人の自滅のシナリオを見抜いて、そこから自由になることをめざすものですが、A、B、Cは親からのメッセーですから、親の影響が決定的です。しかし、親もまた親からのメッセージを受けて育ったのです。

  そして、それはその時代の価値観です。時代にも自滅のシナリオがあります。20世紀はどのような自滅のシナリオを持っているのでしょうか。最後に、そのまとめをし、「生かされてる医学」による解決を考えてみましょう。

  21世紀は「こころの時代」だと皆が言うようになりました。しかし、「こころの時代」はまだ影も形も見えません。来るという保証も全くありません。「こころの時代」への過渡期とすら呼べない、混迷への前奏曲なのかもしれません。

 過去の歴史を見ても、ローマをはじめとして繁栄をそのまま持続できた国はありません。特に日本の経済に陰りが出て来ています。このまま放っておけば活力が落ち、また貧しい国に落ちていく可能性もあるでしょう。

  しかし、本当に大変なのは、「物の時代」が終わろうとしているのに、「こころの時代」を建設するための新しい処方箋がないことです。さらに、新しい発想や行動みをしようとすると、「みんなと一緒でなければならない、出る杭はいじめよう」という日本社会の締め付けにあい動けなくなります。

  これを性格分析でいうと「物の時代のA、B、C」は限界に達して役に立たなくなってきた。そのためE(不安)とD(不満)が社会の中に広がってきている。しかし、「こころの時代のA、B、C」はまだ影も形も見えない。しかも、「物の時代のA、B、C」が人を縛るものとして強く残存し、閉塞感や無感動が広がっているということです。

  「物の時代」のAは、攻撃や警戒、人を縛る掟です。Bは、自分のための親切です。さらにC(原点)の原点が特に重要です。「物の時代」のCは、人間中心の社会であり、ヒューマニズムと唯物論です。

  ヒューマニズムはわがまま、弱肉強食の生存競争となり、唯物論は「死んだら灰になるだけ」という虚無に人を陥れました。
このようなA、B、Cでは、生きている感動や喜びは当然沸き上がりません。Eは不安に、Dも不満になるだけです。まさにこのままでは自滅のシナリオです。


◆大人になれない国

 この点をもう少し具体的に考えます。現在の日本は、大人になれない国です。これは、若い世代を理解するときに特に重要です。

 大人になるには親のモデルが必要です。大人というのは、A(きびしい親)とB(やさしい親)ということです。しかし、今の日本には親のモデルがありません。若い方に「どんな親になりたいですか?」と尋ねても返答は無いでしよう。つまり、A(きびしい親)とB(やさしい親)が育たない状況にあります。

  昔は色々ありました。末は博士か大臣か。戦争中だと軍人さん。そのような大人のモデルがありました。つまり親のモデルが沢山ありました。
  貧しい時代では親のモデルは、国が生き残っていくために絶対に必要なものでした。その代表的なものが、昔はどこの小学校にもあった二宮尊徳の銅像でしょう。社会に役に立つ人間を作る、これが至上命令でした。

  「物の時代」は、衣食住を得るために、自分を押さえて「社会適応優先型」で生きる時代です。自分を押さえて集団のために生きることが、美徳であるというよりは絶対に必要なことでした。「わがままであってはならない。軟弱であってはならない」とD(自由気ままな子供)もE(評価を気にする子供)も押さえ込もうとする教育でした。

  その教育のために、謀反者をギロチンにかける国もありました。比較的早くから民主的に裁判で裁く国もありましたが、日本の得意技は村八分でした。掟に違反した者は排除することでした。こうしてE(評価を気にする子供)の高い国民ができあがりました。

  E(評価を気にする子供)は、自己否定の能力なので、常に自信がもてない人間になってしまいます。しかも、貧しい時代は強い人間を必要としたので、軟弱な人間であってはならないという価値観がその上から来ます。E(評価を気にする子供)を高めておいて、そんな不安を感じる軟弱な人間であってはならないということですから、二重の自己否定です。自分に自信がもてないので、国や家や会社のために献身し、人の評価で安心しようという人間になります。

  不安が自覚されている間は「ボロぞうきんさん」ですが、国や家や会社に非常にうまく適応できれば不安がなくなるので、「伝統さん」になるという時代です。

  確かに、貧しい時代は、社会や国を維持しなければなりませんから、A(きびしい親)は、管理統制のためのAになります。秩序が乱れれば、生産力も落ちます。外敵から生命を守ることもできません。権威による管理統制のためのA(きびしい親)は確かに役立ったことも確かでしょう。その間でB(やさしい親)は、自分を守るための親切やわいろという役割を果たすことになったでしょう。

  しかし、豊かに時代になれば十分食べられます。課長や部長も、大臣や博士も、豊かな時代では「好きでやっている人」に過ぎなくなります。大きな椅子に座って「俺は偉いんだぞ」と威張ってみても、若い世代から見れば「おじさん、ダサイヨー」で終わるかもしれません。

 権威は自由な発想や活動を押さえるものに過ぎなくなり有害になります。特に問題なのは、「みんなと一緒でないものは排除してよい。いじめても良い」という日本社会の村八分文化となって日常生活を縛るものになります。そのなかで、何かしようとすると締め付けられるという閉塞感を感じないわけにはいきません。

  人類の歴史、さらに生物の歴史と考えると、どのぐらいの年数が今までにあったのか気が遠くなるほどです。その間、天災、飢饉、伝染病と大変苦しい時代でした。人類は弱い種族です。集団生活をしなければ生きていけません。だから、掟も貧しい時代では、安全と衣食住が得られるという代償があるので、耐えることはそれほど苦痛ではなかったでしょう。

  しかし、豊かな時代になって、安全と衣食住が得られるのは当然のようになると、掟は意味が無いものとなり耐え難い束縛としか映りません。この村八分社会のなごりはあらゆるところで残っています。隣組、学校、PTA、会社、人間が集まるところならどこでも生きています。みんなと同じでない人は排斥されます。今問題になっている子供のいじめは、大人の村八分社会の反映です。子供がすることはすべて大人から学んだものだからです。

  この村八分文化には、東洋の無の文化も影響しているように思えます。本来の無の文化は豊穣な生命の世界と一体化するというエネルギーに溢れたものですが、日本人の無の理解は、自分が無い、自分を押える、自分を殺すことが良いというある意味では危険な文化でもあります。これはE(評価を気にする子供)やD(自由気ままな子供)を抹殺することです。

  江戸時代ですと、切腹が美徳となります。自分を犠牲にすることに美すら感じます。あるいは最近ですと、若い女性のブランド志向もそのような感じがします。「私は生きている」という存在感(Dの自由気ままな子供)は感じたいのですが、個性を主張することは危険なのです。村八分になるのです。だから輝くものをみんなで持つ、ということになるのでしょう。


◆壮・実年層の苦悩

  このような時代の中で、本当に苦しめられているのは敗戦世代や団塊世代でしょう。最近では、経済の悪化と団塊世代の数の多さとで、年功序列が壊れて来ています。終身雇用もゆらいできています。いつ会社を辞めなければならなくなるかわからなくなりました。年金もあやしくなってきました。安定した老後を夢見ていたのに、老後の保障はどうなるのでしょうか。E(不安)が増大してきています。

  日本の繁栄を一身に背負って来たはずなのに、生きている感動や実感を失い、「自分は社会にとっても、家族にとっても役に立つ人間だ」という自負が希薄になり、その喪失感に苛まされます。

  しかし、「物の時代」のスタイルで頑張っても、もはや昔のように効果も上がらず、拍手も来ません。周囲からは浮き上がってしまうのですが、がむしゃら頑張る以外を知らないので、突き進み前進しようとする。それが、突然死・過労死につながってはいないでしょうか。 

  でも、どうしたらよいのでしょう。何をしても良いかわりに、何をしても充実感も成功も得られないかも知れません。空虚さが漂います。生きる目標を失ってしまいそうです。
  目標を失い、糸の切れた凧のように無力感が強まり、それから逃れるために日々食べたり、飲んだりで過ごすことが多くなる。それが、肥満であり、がん・脳卒中・心筋梗塞につながってはいないでしょうか。


◆危険な考え

  ただ、特に注意が必要なことがあります。「物質的に豊かになり過ぎたことが悪い。だから、質素にすべきである」、「自由にし過ぎたことが悪い。道徳教育を復活させるべきだ」、果ては「忠誠心養わせるために、昔の徴兵制も悪くなかった」、さまざまな意見がでて来ます。しかし、これらは危険な考えです。

  ようやく豊かになり、家や会社や国のために生きて死ぬだけの人生から解放されつつあります。それは素晴らしいことです。自分を抑えて社会適応だけの人生では、誰の人生を生きたのか分からなくなります。人からの拍手でしか自分の存在感を感じられないのことのほうが、悲しいことではありませんか。
豊かな時代とは衣食住から解放されて、「本当の自分」を生きることができる時代です。それが豊かさの恩恵です。

  現代の問題は、「こころの時代」が準備できていなかった、つまり「本当の自分を生きる、自分の山を登る」時代が用意できなったことによるもので、物が豊かになることが悪いはずはないのです。昔が良かったという考えは、問題の本質を覆い隠し混迷を深めるだけのものです。そのためにも「こころの時代」へ進まなければなりません。

  「こころの時代」は、一人一人が本当の自分を生きれる時代です。一人一人が主役です。しかも、一人一人が自分を生きれば、一人一人が個性的で独創的になります。それは、今の日本が最も求めている高付加価値の人材です。この混乱を、そのような出発とすることができるかどうかは、私たち一人一人がどう生きるかにかかっています。

  長い人類の歴史はほとんどが飢餓の歴史でした。衣食住を得るために人生が終わりました。「他人の山」を登ることで終わりました。誰でもが「自分の山」を登る生き方をできるのは、豊かになって始めて可能になりました。この幸運を自分のものにしたいと思います。「自分の山」を登る喜びを味わいたいと思います。

 それは「生かされてる医学的事実」を原点とした「生かされてる医学」を学んでいただければ可能になるはずです。そして、そのような人が増えていけば、やがて世界に「こころの時代」が実現できるでしょう。それが、私の生涯をかけた夢です。


◆世界の平和

 世界の平和についても考えてみたいと思います。ヒューマニズムは、ルネッサンス文化の素晴らしいものの一つでした。しかし、言葉としてのヒューマニズムは美しいものですが、「人間中心」は次第に「自分中心」となり、欲望と自己防衛のための生存競争の世界になりました。

  振り返ってみると20世紀は、第一次世界大戦、第二次世界大戦と戦争を繰り返し、ナチスのアウシュビッツに代表されるユダヤ人虐殺、最後は広島、長崎に原爆を投下しました。人間は素晴らしい存在ではなく、生命の世界の動植物の中で最も醜い存在であることを証明してしまいました。ヒューマニズムでは平和を実現できませんでした。

  現在もなお、貧困と戦争が続いています。こんなにも豊かになったのに、世界を平和に導けません。もう世界は十分に豊かです。現代の技術をもってすればアフリカの飢饉など簡単に解決できます。世界から貧しさを追放することは可能です。そしてより多くの人が豊かになり自分を発揮できれば、それがまた世界を豊かにします。

  なのにどうして平和を実現できないのでしょう。それは、国が違っても、肌の色が違っても、言葉が違っても、考え方が違っても、世界のすべての人が共通の基盤とできる原点がないからだと思います。21世紀には、そのような原点が見いだせるのでしょうか。

  「生かされてる医学的事実」に立てば、すべての人は素晴らしい存在です。「生かされてる世界」から見れば、お互いがかけがえのない存在であり、平等です。相手も100点満点であることを知ったとき、はじめてお互いの自由を尊重でき、自由と平等は両立します。

  お互いが自由で平等であるためにはルールがいります。なければルールを作っていくことになります。「生かされてる医学的事実」を原点とすれば、このルールを作ることはたやすいことです。そして、このルールを作り、このルールを尊重していくことこそがこそが本当のA(きびしい親)なのです。さらに、「生かされてる医学的事実」に立てば、優しさ、思いやりが生まれます。

  この思いやりこそが本当のB(やさしい親)なのです。ここまで着たとき、初めて第4章の一覧表が完成いたします。
  そして、それが「こころの時代」の実現ということだと思います。「生かされてる医学的事実」を原点として、21世紀には本当の豊かさと平和な世界を築けるのではないか、そうありたいとと念願をしています。


◆人類が自滅のシナリオに入った。

  核兵器をつくったり、ピストルを持っているというのは、Bであるはずはあません。攻撃、警戒でありAです。

 平和や共存と口では言われております。Bが世界を覆っているなどとはとても言えません。Bがないことはありませんが、自分の利益を守るためのBです。
  では、この世界の原点はどうでしょうか。生存競争、自由競争とも言われていますが、中身は生存競争です。武器をもてばあきらかな戦争ですが、それが経済になっても中身は同じです。

  Dは欲望です。得られなかったら不満です。Eは自己防衛です。できなかったら不安です。不安と不満が動機となって世界が動いています。「あんたが悪いさん」から「バラバラさん」というのが世界の性格でしょう。そして、すでに自滅のシナリオに入っているということが心配です。

 21世紀は、歴史上たとえがないほどの大量殺戮の時代です。また、資源についても大量消費の時代でした。この自滅のシナリオをどう解決するのですか。
  まず性格分析のCは充実感があるときははっと我に返って「原点」に戻る機能です。しかし、私たちは原点を失いました。個人の問題ではなく、これは時代の問題です。

 中世は神様の時代でした。ほとんどは人間が人間を支配するために捏造した神様といったほうがいいでしょうが、ルネッサンスが興り科学が発達し神様は死にました。人間を支配する神様よりも人間に価値を置くようになりました。ヒューマニズムです。

  また、科学の発展に従って、人間も物質であり、心や精神も物質から発生するという唯物論が常識になりました。
 しかし、ヒューマニズムは、平和を実現するどころか、大量虐殺の戦争を繰りひろげました。

  科学は、精神の価値を認めることができず、心の時代を築けるものではないことが明白になりつつあります。
  このように原点としてきたものがすべて崩壊したのが現在です。何を原点にするかが最も大切なことです。

 観念論も唯物論もヒューマニズムも社会適応という生き方も原点とはならなくなりました。価値観の多様性と言われますが、ルネッサンスの最初のように新しいものが勃興してくるときは、文学、音楽、科学など一つ一つが生き生きとエネルギーを持っています。原点も目指す方向も明確です。

  しかし、現在はこのルネッサンスの終焉ですから、形があったものが崩壊して行くだけですから、多様性というよりは無秩序です。原点が見当たらないのは当然のことです。
  新しい原点が必要です。「生かされてる医学」では、生かされてる医学的事実を原点です。

 「生かされてる世界」から見れば、私は素晴らしい存在です。私が素晴らしい以上、あいての人も素晴らしい。一人一人が自由で平等です。そのためにはルールがいります。しかし、人を支配するためのルールではありません。自由と平等のための自由です。Aが支配のためのAではなく、自由と平等を両立させるためのルールになります。

  それが両立するのは、私もあなたも「生かされてる世界」から生かされている素晴らしい最高の価値であるからです。私が素晴らしくなければ、相手の素晴らしさは認められません。素晴らしい私は、「してあげられる人」です。素晴らしくない私は「してほしいです」。私が素晴らしく充実感があれば、相手のために何かができます。Bが本当のBになります。自由・平等・博愛の社会が実現できます。

  私が素晴らしいという発見があり、それを感じられるようになれば、Dはフロンティア精神となり、Eは内面の世界、人の不安を理解できる素晴らしい能力です。おおらかで優しい世界か、自分で生きていると思っているごうまんで自滅のシナリオの人間の世界か、どちらを選ぶのかという問題です。


◆殺していけない理由は?

 神戸研修会で、Kさんから「最近、若いお母さんが赤ちゃんを放置して餓死させましたが、どう考えたらよいのでしょう。若い方は命の尊重という考えが薄れているのでしょうか」という質問を受けました。その他にも、中学生による殺人が多発しています。そこで、私が「人を殺して、どうしていけないのですか?」と聞き返しました。会場の皆さんも一瞬キョトンとされていました。

  人を殺してはならないという正確な理由は見あたりません。人間の歴史を振り返ってみても、殺人の歴史です。特に、20世紀は大量の殺人、しかもアウシュビッツや原爆というむごたらしいやり方で多くの方を殺しました。

 この事実を見せつけられると「人間が人間を殺していけない理由」は影が薄くなります。文部省がどんなに声を大きくして道徳を説いても子供達に対しては説得力はないのです。確かに、親が子を殺すというのはショッキングなことですが、母性愛や道徳心だけを頼りにするのは現代のような時代では心もとないことです。

  子供達の殺傷事件や問題行動は、これが終わりではなく始まりでしょう。さまざまな対策が話し合われるでしょうが、どの対策もあまり効果はないでしょう。むしろ、一刻も早くどの対策も効果がないという深刻さを理解することが必要です。

  問われているのは、「お父さん、お母さん、人生は本当に生きるに値するものですか?」ということでしょう。私たちの日常の顔に、生きる楽しさ、感動と喜びがありますか。希望がありますが。ないのなら、どうして子供達に人生が楽しいもの、生きる価値のあるものと思えるでしょうか。人間の子供は大人からすべてを学びます。子供は大人の鏡です。

 私たち自身が「自分の山」を登ることです。「あなたの人生の原点は何ですか?」、「あなたは自分の価値を何で決めているのですか?」、この問いに答えなければなりません。

  しかし、「生かされてる医学」では、人を殺してはいけない理由も、原点も明確です。私たちは大きな生命の世界の中で生かされて生きています。私の価値は、生かされてるということから来ます。どんなに私が駄目な人間でも、生かされてる世界から見れば素晴らしいのです。かけがえのない存在なのです。そして、私が素晴らしい以上、目の前のあなたも素晴らしいのです。

  だから「素晴らしい存在を殺すことは許されません」ということですらありません。「私は素晴らしい」ということが理解できれば世界が違うのです。殺すというような発想自体がおこらないということです。


◆「切れる子供」と「自殺する子供」

  13歳の中学生が26歳の英語の女性教師をナイフで刺し殺したというショキング名なニュースが流れたと思ったら、今度は同じく中学生が警官を刺してピストルを奪おうとしたという事件が起こりました。その前後にも、似たような事件が多発して
います。
  そのなかで「切れる」という言葉が有名になりました。「切れる子供」とはどんな子供なのか。一方、いじめで「自殺する子供」もいます。その子供達はどのような性格なのか。性格分析で考えてみましょう。

  勿論、性格を単純に決めつけることは危険です。性格分析は個人指導なしではとんでもない誤解に結びつきますので、ここでは目安程度に考えてください。それが前提条件です。

  まず、「あのおとなしい子供が、どうしてこんなことを!」というのが決まり文句のように新聞やニュースの報道で使われます。これは、心理学を全く知らないと言っているのと同じです。

  「おとなしい」というのは、性格分析でいうと、不安が強く、人の評価を気にする子供(E)の部分が強いということです。「不安さん」です。
  自由気ままな子供(D)の高い「不満さん」であれば、我慢しません。常に不満を周囲にまき散らし手こずらせていますので、誰だってわかります。おとなしいというのは、我慢しているからおとなしいのです。まず、第1にここを間違えないでください。

  「切れる子供」も「自殺する子供」も、自分を抑えている「不安さん」ですが、その違いは、「きびしい親(A)」と「優しい親(B)」の高さにあります。「切れる子供」は「きびしい親(A)」が高く、「自殺する子供」は「優しい親(B)」が高いでしょう。つまり、「切れる子供」は「バラバラさん」であり、「自殺する子供」は「ボロぞうきんさん」ということでしょう。

  ただし、多くの子供はこの中間型であり、また典型的なタイプであっても、切れたり自殺まで追い込まれる子供は例外的です。ただ、貧しい時代では例外的だったことも、今日では状況次第で、どの子供にでも事件が起こり得るという社会的、心理的状態になっていることが危機的だということです。

  しかし、極端な行動には至らなくても彼らの心の中の苦しさは大変なものでしょう。本来、「バラバラさん」や「ボロぞうきんさん」の子供は素晴らしい感性です。「こころの時代」を造るために、彼らの感性こそが必要なのですが、それだけに追い込まれるのです。

  このように子供達が追い込まれる根本的な原因は、日本の村八分体質でしょう。解決のためには、中央官庁から町内会に至るまで、大人の心の隅々にまで浸透している村八分体質を捨てることです。

 圧迫感、締め付け、閉塞感から、無感動となり、最後はもうどうでもいいという気持になるまで追い込んでいます。一人一人が「他人の山」ではなくて、「自分の山」を登る文化を造ることが解決への道だということを真剣に理解しなければなりません。


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