心療内科医笹田信五のカウンセリングルーム
1992年、ソ連の支配下にあった国々が、次々と共産主義の重圧から解放されていく様は感動的でした。そして、最後に一挙にソ連自身が崩壊するのを目にしたときは、歴史に立ち会っているという感慨を極めて大きな衝撃とともに感じたことでした。
このソ連の崩壊の原因はいろいろありましょう。単純に言うことは危険でしょうが、マルクス主義が唯物論であったことが最も根本的な原因と私には思われます。「世界は勿論のこと、生命も、そして決定的なことは、人間も物から発生した」とする考えです。
では、やはり資本主義がよいのだ、そう思う人もいるでしょう。しかし、よく考えてください。資本主義も根本は物です。根本はお金です。人間の欲望を認めたというか、欲望を原動力にしているのですから決して誉められたものではありません。
欲望を原理とした社会にどのような未来があるのでしょうか。お金というもので人間を評価する社会です。果てしない生存競争の社会です。それが、限界だということは既に私たち自身が感じていることではありませんか。「心の時代」を築くことはできません。
マルクス主義は物質的には平等を目指したのですから、その点では理想を追ったと言えます。人間の欲望を原動力としただけの資本主義はもっと問題でしょう。
社会保障や福祉を取り入れることで、資本主義の国々も人間性のある社会を築こうとしていますが、物を根本とする以上、このままではやがて崩壊の運命に飲み込まれていくことでしょう。
このように見て来ると、「物の時代」が崩壊しようとしているのではなく、「唯物論」的な物の見方が限界に達したということではないでしょうか。
いや、やっと物質的な制約から解放されるところまで来た。つまり、衣食住を得るために生きることから解放され、初めて「本当の自分」を生きれる時代になった。なのに、新しい文化が準備できていない。このことが不安と混乱を呼び起こしているのではないでしょうか。それが理解できれば、一見混乱の中にある多くの事柄もはっきりと見えて来るでしょう。
物をつくる産業構造では、「心の時代」に求められている安心や生きている喜びを提供はできません。「心の時代」の製品が作れないことが不況の原因でしょう。
貧しい国を豊かな国にするための政治理念では、「心の時代」のビジョンは描けません。「心の時代」を求める無党派層が増えざるを得ません。
「物の時代」を造るための教育には、個性や創造力は邪魔物です。記憶力と素早さだけを追求してきた明治時代以来の富国強兵策のままの教育では、「心の時代」の担い手を育てることはできません。感性豊かな子供なら、登校拒否をおこすでしょう。
人間を物として扱ってきた医学に、予防医学や健康医学はできません。それらはストレスの問題であり、薬や注射や手術には保険点数がついていますが、心には点数がついていません。あらゆる分野で起こっている今日の混乱は、人間を物と見た文明の崩壊です。
過去を見てみれば、当然のことですが、人間を物とは考えなかった時代もありました。例えば、中世のヨーロッパはキリスト教の文化でした。人間は、神の似姿で神様の子供でありました。物質から発生したのではありません。
最近、ホスピスが話題になります。このホスピスの起源は中世のヨーロッパでした。聖地巡礼の旅人が疲れたり、病気になったときに温かくもてなす場所が村々にあっそうです。
ここでは、病気になって死にゆく旅人が温かくもてなされたのは、可哀想だからではないのです。死とは神様のもとへゆくことです。私たちより、一足早く神様のところへいかれるのです。死とは無価値になることではなく、最高の価値ある方のもとへの旅立ちなのです。
たとえこの世で生きているときには、あまり価値あるとはいえない人でも、価値あるものへの旅立ちとなれば、暖かくもてなすことも当然でしょう。そのような旅人をお世話する場所がホスピスであり、それだけに心を込めてお世話したのでしょう。
これが、ホスピタリティー、温かくもてなすことの意味であったのだということを、ある本で読み大変感心したことがありました。
私たちが、福祉だ、ホスピタリティーだと言っているのと、根本的に違うのです。だからといって、中世のヨーロッパが良いのだと言いたいのでは毛頭ありません。果たして、唯物論的な考え方をそのままにして、ホスピスが可能でしょうか? ホスピタリティーが育まれるでしょうか? ということを申し上げたいのです。
「心や精神が凝集して形となり、人間ができた」と考えるのは、唯心論ということでしょう。そして、キリスト教では、心や精神は神より来たものということでしょう。しかし、唯心論もまた大きな問題を抱えています。
何よりも、唯心論は信じることは自由ですが、事実かどうかは証明できません。それだけに、見たことも聞いたこともない神様に縛られて、心の自由を失うかも知れません。極端にいえば、誰でもがどんなことでも言えます。だから言いたい放題になり、唯物論よりも弊害が大きいかも知れません。
もっとも、キリスト自身はもっと直感的・体験的な世界を生きていたのであって、「唯心論だ、いや唯物論だ」という議論は言葉の遊びとしか見えなかったことでしょう。あふれる実感の世界を生きていたのであり、そのような議論には興味なかったでしょうが。
この唯心論の弊害は、人間が人間を支配するために神様を利用した古い時代によく見られましたが、現在でもあります。今話題のマインドコントロールです。
マインドコントロールを見抜く方法は、第一には、事実を認められるかどうかということです。都合の悪い事実がでてきたとき、それを認められないのはマインド・コントロールされている証拠です。
第二には、一人一人が「自分の山」を登ろうとするのではなく、ある指導者の考えを崇拝し絶対視している場合。さらに多くの人にもそれを強要する場合です。それは「他人の山」を登ることです。
第三は、一人一人が平等ではなく、階級社会になっている場合です。「自分の山」を登るということであれば、偉いも偉くないもありません。すべての人は平等だからです。豊かな時代になってまで、マインド・コントロールにかかり、精神の自由を売り渡す必要はありません。
ともかく、どの時代が良かったかということではなく、私たちは時代の子であり、その時代の考え方を小さいときより、見たり聞いたりして徹底して影響されています。当然のこととして考えたり、感じたりしていることも、よくよく自分の目で確かめて生きた方が良いのではないでしょうか。
私たちが、動物のように本能によってコントロールされているのであれば、極端な間違いは起こりません。しかし、人間は本能からの自由をかなり与えられています。それは、素晴らしいことです。本能からの自由、自由にものを考えられる能力、それは人間に与えられた最高のものでしょう。
ただ、それだけに極端な考えに陥る危険があります。それが、音楽が好きか、登山が好きか程度の差であれば問題はありませんが、人生観、生命感を180度逆転するような間違いに陥る可能性があるということです。
そんなに、深刻に考えなくても良いのではないかと思う方もおられるでしょう。しかし、過去を見てください。地球の周りを太陽が回っていたと確信していた時代もありました。地球は像が支えていて、水平線のむこうは滝になって落ちていると思い込んでいた時代もそんなに昔ではありません。
太陽がどこを回っていようと、水平線のかなたが滝であろうとなかろうと、私たちの人生にはそんなに大きな違いはないでしょう。
しかし、人間が物からできているかどうかは、根本的な問題です。年を取るにつれ、物として劣っていき最後は本当に無価値になる。そのような人生を生きるのかどうかという問題です。そのような生き方を納得されるのでしょうか?
もし、事実でないのであれば、なんという悲劇でしょう。年を取ることの失望感、そして虚無になってしまうという死の恐怖、それが間違いだったら? 多く人々の失望感と恐怖が、味わう必要のないものであったとしたら? 何と恐ろしいことでしょうか。
自分の目で確かめる大切さを切実に感じます。大きく目を開いて見てみましょう。人間の理屈を越えた美しい、素晴らしい、楽しげな世界が広がってはいませんか? 人間も動物も植物もすべての物が、生かされて生きている不思議な世界が広がってはいませんか?唯物論も唯心論もともに極端な考えではありませんか。
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